ことりの証人のブログ

ママ、長女 うさこ(社交不安症)、長男(自閉症)、次女 ことり

人が物になる心理2(閲覧注意)

「私たちはハルマゲドンを生きて通過するの。ハルマゲドンを目撃することができるの。素晴らしいと思わない?」

私の司会者は嬉々としてハルマゲドンをこの目で観れるという特権が楽しみと語る

つまり

この方エホバを信じないという理由で滅ぼされる当時50億以上の人々が滅ぼされるのを楽しく見学したいらしい

この人おかしい

50億の人が滅ぼされるのを楽しみにしている。彼女の言いかたは穏やかなのだが、常に不愉快になる。彼女と聖書研究した後はイライラして憂鬱な気分になる。今から考えれば彼女はサイコパスだ。カルトの幹部や上の立場の者はサイコパスが多いい

一緒の会衆の姉妹2人に

「カリスマ姉妹が司会者で大変でしょ?」

と聞かれたことがあるが、研究生の分際で本巡回監督、主催監督の奥さん姉妹の悪口は言える立場にはない

「あの人と話すと嫌な気持ちになる」

彼女を異様さは上手く説明できなかった

母や姉たちに文句を言っても

「カリスマ姉妹は霊性が高い。言うことを聴くべきだ。霊性が鍛えられる」 

霊性が高い=サイコパス度が高い

霊性が高ければ高いほど、異様な人が多い

また

「エホバを信じない人が滅ぼされるのは悪い人だから当然。あなたがおかしい」こっちがおかしい認定される

「50億(今なら73億)以上の人が滅ぼされるのを観るのが楽しみ」

これこそがカルト信者の最大の喜びである

エホバの証人は選民であり「特別な人」更にエホバを信じる「絶対正義」の人なのだ

自分は特別

自分は絶対正義

と感じた人間が最も残酷になる

魔女狩り

16世紀、17世紀

彼女たちの大半は身寄りのないやもめや立場の弱い者であった

魔女と決め付けられたやもめは拷問され「自分は魔女です」と自白する。懺悔にきた神父が

「あなたは何故自分が魔女だと自白したのですか」

「私は身寄りの無いやもめです。今は物乞いをして生活をしている状態です。一度魔女と疑いをかけられたら、もう私を誰も施しをしてくれないでしょう。私に残された道は餓死するか、火焙りにさせられるかしかないのです」そしてやもめは火焙りの刑に殉じた

群衆たちは魔女が火焙りにされるのを見て喜ぶ

彼らは罪人だから

裁かれて当然

我々の道徳的世界から排除すべきとみなされる人たちであれば、それは人間でなく「物」になる

「物」は集団の中から排除される、彼らの家を奪い、家族を殺し、火焙りにしても罰せられることはなく、称号さえ受けるようになる

フランス革命では貴族たちの公開処刑を群衆たちは嬉々として喜んだ。ギロチン広場のアパートメントの見晴らしのいい2階席は飛ぶように売れた。これからギロチンに処せらる人に向かい胸をはだけて見せ、はやし立てる女性たちがいた。産業革命で経済的に潤ったイギリスではギロチンツアーまであった。わざわざ海外からツアーを組んでギロチンを観に来るのである

人間は自分たちが正義、特別と思えば、自分と違う人たちを「物」扱いする「物」扱いした時。「物」に対して残虐行為さえ厭わない

本当の善良ななる人間は自分が完全に正しいと思わない

善良な人は絶えず反省を繰り返し、良心に照らして、自分の行動や判断を吟味している。常に自分に疑いを持つ

善良な人間は自分を完全に正しいと思うことはない

良心のある人は本能的に善悪を絶対的なものと考えない

100%の善人も 

100%の悪人もいない

エホバ信者は73億の人の処刑を嬉々として待ちわびる。まるでフランス革命でのギロチン処刑を愉しむ群衆のように

カルト信者にとって自分と同じ信仰を持たない者は排除すべき「物」になる

この処刑の後を楽しんだ後は

楽園で永遠の命と若さを与えられる

カルト信者の幸せは73億の人間の犠牲の上にある

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カルト信者には

自らの若さを保つために600人以上の娘を犠牲にしたエリザベート・バードリー以上の邪悪さと

カトリックが正しいと信じ、プロテスタントを虐殺したカトリーヌ・メディチとメアリ1世のような残虐性がある

エリザベート・バードリは召使いたちに娘を死ぬまで拷問させ、娘たちの苦しみ泣き叫ぶ姿を観て自分が若返ると思い、たいそう喜んだ

エホバ信者はエリザベート・バードリーやカトリーヌ・メディチ、メアリ1世のような邪があるが

自分の中には邪は全くない

自分たちだけが絶対正義でマトモと信じている

母も姉もいつまで経ってももハルマゲドンが来なくて20年近く不活発状態だ。断絶はしていない

叔父がペケ一子連れの綺麗な人と結婚した。結婚する時親戚じゃう反対した

中学生と小学生の子供がいる女性と結婚することは

その子供たちの父親になるという事。自分の子供でない子たちの人生の責任を負わなければならない

簡単にできることではないと

そんな親戚の助言を押し切り結婚した

相手の女性はパチンコ好きで金遣いが荒く、数年程で離婚した

金遣いの荒い女性と離婚した後叔父は経済的に困窮したらしい

叔父は離婚した時、父と母に

自分の結婚で親戚中に迷惑をかけてたことを謝罪した

親戚中に謝罪したのだろう

母といえばカルト宗教活動で冠婚葬祭に散々親戚中に迷惑をかけたクセに

誰にも謝罪しない

反省もない

まともな人間は他人に迷惑かければ謝罪する

カルトの

叔父は人間として当たり前のことをした。母は叔父のことを

「変わってる」

「無教養」と散々悪口を言っていたが、母の方が人間として

母と姉たちは親戚の中でエホバの証人である。真理を知る自分たちが一番まともで優れていると思い込んでいる

母は、常に父の実家を全員無教養、大学に行った人はいない(自分も高卒)、テレビを見てばかり

と娘たちに悪口を吹聴した為、大人になってからエホバの証人になった姉は

母同様に差別的になり、エホバを信じない親戚をあからさまに見下すようになった(エホバを信じない人はサタン側の人間で劣っていると集会、大会で刷り込まれる)

父が叔父を一緒に住まわせるという話をした時、母は

エホバの証人ならとにかく、同居したくないわ!」と何度も繰り返したため、姉は叔父に

「私たちと同居したくば、エホバの証人と聖書研究をして、エホバの証人になって下さい。さもなくば一人で勝手にお住み下さい」と叔父に面と向かって言い放ったこともある

呆れ返った叔父に

「お前らの宗教は、自分たちだけ良ければそれで良いんだな」

と言われたら

母と姉たちは

エホバの証人は愛があるのに」

「サタンが邪魔をして迫害されている」と被害者ぶる始末

母と姉はこんなにも親戚中に迷惑をかけたのだが謝罪もしないし、罪悪感も全くなく平然としている

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父の親戚は一言で言えば普通だ

特別に人格者でもないし

特別優秀でもなく、裕福ではないが

普通の人たちだ

多くの日本人がそうであるように

、新年には初詣に行き、クリスマスを祝い、お墓はお寺の普通の日本人だ

怪しいカルト宗教に騙される訳でもなく、誠実に現実の世界を生きている

母と姉たちが冠婚葬祭でお線香、お焼香をしないことを

「信仰の自由」を尊重し、認めてくれた

姉の差別発言さえ寛大に赦している

エホバの証人に理解のある寛大な普通にいい人たちだ

それに引き換えうちの家族ときたら、幼児のように自分たちのことばかり

姉たちは

「うちは凄い。親戚中うちだけエホバの証人なんだよ」よく言っていた

確かに凄い

愚かさだけが凄い

親戚中、一番劣っているのはカルトに洗脳されたうちの家族

我が家こそまさに

パーの一族

ポーの一族 (1) (小学館文庫)

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カルト信者はカルトに洗脳されたら人間としての成長は停滞する

カルト活動をする人間だけが素晴らしいと刷り込まれ、それ以外しなくなる

また、永遠に若く生きられると信じるため

人間として成長しなくてもいいのだ

視野が狭くなり

自己中心的になる

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XのTOSHIも辺見母も洗脳が解けた後は洗脳された自分に羞恥、悔恨、反省の感情があったが、母と姉にはそういう感情は皆無だ

母と姉たちは

自分の中にエリザベート・バードリー、カトリーヌ・ド・メディチ、メアリ1世のような自己本位と邪悪さと残忍さがあるが

自分の中の悪は一切否定する

今でも自分だけは清廉潔白で絶対的に正しいと信じている

洗脳された人間は自分を客観的に見れない

自分のカルト活動のため周囲を振り回し、迷惑をかけてもハッピーでいられるこれが

カルト信者のパラダイスである

他人を犠牲にしても、自分の幸せだけを追求できるパラダイス

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私には信仰の自由があるの

法律で認められているわ

自分の信仰を貫いて何が悪いの?

私の信仰の自由を認めなさい!

アンタの信仰は認めないけどね

他人の不幸を喜ぶ心理

他人の不幸を喜ぶ人は、自分の中に不如意の不満、非力であることをの苦痛、充実していないことへの不満、様々な不平と鬱屈を隠し持っている。だから他人の不幸を知ると、普段の妬み、そねみが和らげるのだ

そして、他人の様々な不幸や失敗を慎重に記憶に蓄えておき、それよりも自分の方がましだから自分へ彼らより幸福と思うのである。つまり、いつも下を見ることしかできず、誰かの不運や嫉みを探している人々なのだ

よって彼らの喜びや悲嘆はいびつなものになる。どちらにしても自分個人の比較で判定されているからだ

「人間的、あまりにも人間的」ニーチェ