カルトの心理学

私は赤い獣にまたがっている一人の女を見た。この獣は全身至るところ神を冒涜する数々の名で覆われており、七つの頭と十本の角があったーヨハネ黙示録17章3節

フランスの歴史

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481  メロヴィング朝ローヴィス王フランク族を統一

751 カロリング朝  ピピン

732  トゥールポワティエの戦い

😃カール=マルテルvsイスラム

768  カール大帝即位

778   スペイン遠征(最後の一隊がロンスヴォーでバスク人に撃たれる  ローランの歌)

799    ローマ教皇ローマから追われフランク王カールに保護

800   ローマ教皇からローマ皇帝の称号を与えられる

812   ビザンツ皇帝ミカエル1世カールの帝位を認める(アーヘン条約)

843  ヴェルダン条約フランク王国を3分割

870  メルセン条約でドイツ、フランス、ドイツが今のような形になる

885  ヴァイキング・デーン人がパリ市に侵入パリ攻防戦

886  カール3世(カール大帝の孫  肥満王)は決戦を避け

パリ攻撃やめてサンス地方を攻撃することを勧め

さらに700万リーブルの大金を支払う

「腰抜け肥満王が!」

887  無能なカール3世廃位

911  シャルル3世ヴァイキングの首長ロロに領土(今のノルマンディー)を与え自分の妹を妻としてロロに与えた

カロリング朝絶える。選定会議によってカペーが王になる

911  カペー朝

フィリップ2世

ルイ9世  第6回十字軍で捕虜

フィリップ4世

1296  通貨の改鋳

豊かなフランドル地方を入手するため、フランドル伯を捕らえてジャック=ド=シャティヨンを総督に任命

1302  フランス初めての三部会で聖職者からも課税すると決議した

1303  アナーニ事件ローマ教皇ボニファティウス8世を監禁

1306   ユダヤ人から財産没収

1309   教皇庁をアビィニヨンへ移した

ヴァロア朝

百年戦争

ジャンヌ=ダルクの活躍により勝利シャルル7世はフランス王に返り咲く

フランソワ1世

1562〜98  ユグノー戦争

国王(カトリック)vsカルヴァン派

カトリーヌ=ド=メディチ   フィレンツェの名門の娘。フランス王アンリと結婚

フランスに多くの料理(ソルベ)、スプーン、フォーク、香辛料、香水などを持ち込んだ

シャルル9世

1572  サンバルテルミの虐殺

ユグノーの首領ナヴァルのアンリとシャルル9世の妹マルゴの結婚祝賀会でユグノー派のコリニーが襲撃された

太后カトリーヌ=ド=メディチとギーズ公が黒幕といううわさが流れたため

不穏な噂を消すためカトリーヌ=ド=メディチとギーズはコリニーを含め3000人のユグノーを虐殺

ナヴァルのアンリは監禁され脅されてカトリックに改宗するはめになった

ユグノーの呪い

シャルル9世は亡くなり

アンリ3世が即位

1588年  ギーズ公は王家乗っ取りを企み3部会を開催しようとした。アンリ3世はギーズ公を殺害するが

1589  アンリ3世はギーズ公を信奉した聖職者に暗殺された

虐殺事件の後カトリーヌは世継ぎを次々と失くしていった

ナヴァルのアンリが

アンリ4世として即位

ブルボン朝

フランス国民が「カトリックでなくば王として認めない」と主張していたため

1593   アンリ4世は再びカトリックに改宗し

1589  ナントの勅令(ユグノーに信仰の自由を与える)

ユグノーカトリックユグノーカトリックと何度も信仰を変えたアンリは宙返りのアンリと呼ばれた

1610  アンリ4世カトリック信者に暗殺。アンリ4世の息子ま8歳の

1610  ルイ13世即位

ルイ13世の母親マリ=ド=メディチとコンチーニ夫妻が政治をしていた

まりはカトリックフィレンツェ出身のためフランスをカトリックの国に戻すべく

息子ルイ13世とスペインの王女アンヌ

娘イザベルをアンヌの弟フェリペと婚姻関係を結ばせた

ルイがスペイン王女と結婚してもなお政治に口出しする母親

毒親ね」

ルイ13世母親に引導を渡す

「追放ね」

1615  宰相 リュリシューは三部会停止(絶対王政)

さらに30年戦争に介入

新教徒vsカトリック

フランスはカトリックでありながら、プロテスタントを支援した

もし、三十年戦争カトリックハプスブルク家(スペイン、神聖ローマ帝国)が勝てばハプスブルク家が更に増長する。フランスはハプスブルク家に挟み撃ちされる

スペインにはルイの妹が嫁ぎ

フランスにはフェリペの姉が嫁いでいた

壮大な兄弟喧嘩が始まる

1648   30年戦争終結

ハプスブルク家は敗北。プロテスタントを支持したフランスブルボン家アルザス、ロレーヌ地方獲得

1643  ルイ14世即位(5歳)

宰相マザラン

戦争で土地は得たが財政難

税金が上がり給料が支払われない。貴族、高等法院が不満になる

「あんな子供王に何がわかるか!」

1648〜53  貴族たちはフロンドの乱(反乱軍が投石器(フロンド)を使用しため)を起こす。マザランルイ14世は一時期亡命 

貴族の内部分裂によりフロンドの乱鎮圧

1661  ルイ14世は自ら政治を行う

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絶対王政

財務総監  コルベールを起用して

重商主義政策

  • 王室直営の工場で毛織物、ガラスを輸出
  • 東インド会社の再建
  • 関税

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1682  ベルサイユ宮殿建築

ベルサイユに貴族を住まわせ監視するため

戦争好き

1685  ナントの勅令廃止

仕事を推進するユグノーは裕福な商工者が多かった。国内の裕福な商工者20万人が海外に流出。経済が停滞した

スペインのハプスブルク家が断絶。ルイ14世は孫のフィリップ(祖母はスペインの姫)をスペインの王としてねじ込みスペインを乗っ取ろうとしたが周囲の国々が反対され

1701  スペイン継承戦争

1713   ユトレヒト条約

🇫🇷アメリカの植民地を失う

1715  ルイ15世  政治に無関心で、イギリスとの戦争で負け更に海外の植民地を失う

1774  ルイ16世即位(1754〜1793享年39歳)

「優柔不断ではあったが、善良であり愚ではなかったのととも革命的な改革派だった」

財政改革

🇬🇧の牽制のため、アメリカ独立戦争に多額の支援

拷問の廃止

ルイ16世は頑張ったが

長年の戦争

寒冷化による農作物不作で財政は悪化の一方。こんな矢先に

首飾り事件

マリ=アントワネットの親友とかたるラ=モット夫人が首飾りを騙しとった詐欺事件により国民はアントワネットに不信感を抱きはじめた

財政破綻

七歳で死んだ皇太子の葬式をするお金がなく銀の食器を売った

特権階級の課税(財務長官ネッケルの提案)

保守派が猛反発したわ。ルイ16世は保守派抑え込みのために

1789  三部会開催

「とてもラディカルな会議よ

王が招集した第3身分が「国民議会」を自称し革命の中心組織となった。テニスコートの誓い。国王に対し憲法をつくる。革命派に貴族、聖職者たちまで合流しはじめた

革命派に懸念した保守派はネッケルを罷免するように要求。ルイは保守派に押され

ネッケルを解任

軍隊を集結して国民議会の弾圧をはかる

国民の不満は爆発

浪費家 マリ=アントワネット

ある年の年間の衣装代 10億円(一着6000万円のドレス)

プチトリアノン宮殿(6億円)

賭博でカモにされた

「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」という噂が広がり

フランスにお金がないのはマリ=アントワネットねせいと考えたフランス国民はアントワネットを敵とし団結する

1789  7月14日パリ市民は国民議会とパリを守るため市民軍をバスティーユ牢獄を占拠

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バスティーユにある武器

大砲

を市民が入手

1789  フランス革命

8月26日  人権宣言

  • 人間は生まれながらにして自由であり
  • 権利において平等である
  • 社会的な差別は共同の利益に基づいてのみもうけることができる

10月5日  7000人の女性がベルサイユ宮殿に「パンをよこせ!」となだれ込み(ベルサイユ行進)国王一家はパリのチュルリー宮殿に移転させられた

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フランス民衆に恐怖したマリ=アントワネットは逃亡をはかる

1791  ギルド廃止メートル法設定

1791年6月 ヴァレンヌ逃亡事件

国王の逃亡により国民はショックを受けたの

「国王がいなければ太陽さえ登らない」と、しかし国王がいなくなってもなんともないことがわかってしまった

「なんだ国王いなくても大丈夫じゃん」

国王がただの人間とバレてしまったの

大量のワイン、食料、衣装ダンスを積んだ馬車は目立ち、更に途中で休憩を取った危機感のない国王一家は国境近くのヴァレンヌで捕らえられた

1791  オーストリアプロイセンルイ16世の救援を呼びかける(ビルニッツ宣言)

1792  オーストリアプロイセン連合と戦争

勝てないのは国王夫妻が情報を流出しているせいだと疑惑が湧き上がり

1792年8月10日  国王一家はタンブル塔に幽閉

王政の廃止

第一共和制の始まり

1793年1月21日  ルイ16世処刑

10月16日  マリ=アントワネット処刑

ギロチン

処刑者の苦痛を最小限にするために作られた

初期のギロチンの刃は三日月型だった。錠前作りが趣味のルイ16世は「斜め刃のほうがよく切れる」と助言。斜め刃に改良された

結果論だが、ギロチンを改良し、三部会を開き、革命派を組織し、革命の引き金を引いてたのはルイ16世だった

フランス国王夫妻の処刑に諸外国は衝撃を受けイギリス首相ピットの呼びかけで

第1回対仏同盟

フランス共和制

ジャコバン派(山岳派 急進的共和主義)

ジロンド派(穏健共和主義)

恐怖政治

フランス語(テルール)テロリストの語源

ジャコバン派(ロベスピエール)は独裁者になり、貴族、ジロンド派を処刑。ギロチンにかけられた者の数約1万六千人

A.何故次々と人々をギロチンに処したのか

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Q.フランスは財政難。犯罪者とされギロチンに処された人々の財産を全て没収できた。そのため領地、資産のある貴族たちをギロチンに処した

「財産を没収して政府の資金源にするためね。魔女狩りと似てるわね」

そのため証拠もなく「王党派」扱いされ処刑された人々が沢山いた

それでも混乱は治らない

反体制派の男性と間違われて処刑された16歳の少年

処刑される人にお水を与えたという理由で「反逆者」と呼ばれ処刑された12歳の少女までいた

ロペス=ピエールは自分の同士さえギロチンにかけ始めた

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人々はロペス=ピエールに不信感を抱く

かつて

貧しい弱者を救うため革命家の英雄を志したロペス=ピエールは恐怖の独裁者となった

行き過ぎた正義は邪悪

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1794年7月27日  テルミドール9日

クーデターでロベスピエール一派は逮捕されギロチンに処された(テルミドールのクーデター)

一緒にナポレオン=ポナパルトも逮捕される

五人総裁

「フランス王処刑

ロベスピエールの独裁政治

フランス革命を潰したい周辺諸国

立て続けに社会を不安になる事件が続発した時。国民が待ち望むものは」

「救世主ね」

ナポレオン(1769〜1821  享年52歳)

国を救う指導者としてナポレオンは釈放された

1795  バリでヴァンデミールの反乱(王党派の反乱)

4年で卒業する陸軍士官学校を11カ月で卒業したナポレオン(26歳)が鎮圧に制圧

ナポレオンの戦略とは

「葡萄弾」空中で大砲が葡萄の粒のように散乱する。広範囲の人を殺傷する残虐な武器を使用。残虐過ぎてルイ16世は使用を許さなかった。ナポレオンは暴徒を広場へ誘導し葡萄弾を向けて鎮圧

「暴徒って市民だよね。虐殺では」

「諸外国はフランス革命を潰そうと対仏同盟を結成している。こんな時は強いリーダーが必要なの

暴徒を鎮めたナポレオンに市民は熱狂した

1796  イタリア遠征

イタリア国民に熱狂的に歓迎される

イギリスの航路を分断するため

1798  エジプト遠征

フランスvsエジプト(マルムーク)

ロゼッタストーン発見(シャンポリオン解読)

1798  アブキールの戦いイギリスにぼろ負け

1799  11月9日  ブリュメール18日のクーデター

新しい統領政府で第一統領となり、事実上フランスの指導者となる

2回目のイタリア遠征

アルプス越えで勝利

1800  フランス中央銀行設立

1801  カトリック教会と和解

1802  アミアンの和約(イギリスと和平)

1804  ナポレオン法典

         ナポレオン皇帝即位

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ピウス7世が王冠を授与しようとした

「私は他人の手は借りぬ」自分で王冠を授与させた

ナポレオン包囲網

1805  

😱フランス・.スペイン連合軍vs😀イギリス(ネルソン提督)

イギリス・ロシア・オーストリア同盟

1805  アウテリッツの戦い

🤗フランスvs😨オーストリア・ロシア.連合軍

対仏同盟崩壊

ナポレオンはライン同盟を結成させ神聖ローマ帝国消滅

ナポレオン帝国

弟のルイをオランダ王即位

1808  兄のジョセフをスペイン王にした

1809  ジョゼフィーヌと離婚

1810  オーストリア皇女マリ=ルイーズを妃に迎え生まれた子をローマの王にした

ベルリン独立運動

1810  ナポレオンの兄をスペインの王としたことにスペイン人反乱

ロシアはイギリスと貿易

1812年  5月  60万人の大軍でロシア遠征

9月  モスクワ炎上

10月  雪が降り始め退却。冬の装備がないフランス軍は飢えと寒さと凍傷、ロシア軍とコサック兵の襲撃に次々と脱落した

捕虜10万人、逃げ帰れたのは2万五千だった

50万人の兵士を失ったナポレオン

ロシア皇帝アレクサンドルは各国に呼びかけフランス包囲網結成

1813  ライプツィヒの戦い

😰ナポレオンvs😄連合軍

1814  ウィーン会議

ナポレオンは皇帝の座を追われ、エルバ島にながされた

王政復古

ルイ18世(ルイ16世の弟)

エルバ島から逃げたナポレオン再び皇帝になる

1815  ワーテルロー(ベルギー)の戦い

😱フランスvs😁イギリス、オランダ、プロイセン連合軍

ナポレオンはセントヘレナ島に流された

1821  ナポレオンその地で、51歳で死去

1824  シャルル10世

1825  「10億フランス人の法」制定亡命貴族の財産を保証

国民に不評。国民の支持を得るため

アルジェリア侵攻

アルジェリアとばっちりでは」

戦争に勝っても傲慢な王の人気は戻らない

1830  王令

議会の解散

選挙権は大地主のみ

新聞の発行の制限

民衆ね不満は高まりパリの民衆は武装蜂起にでた(7月革命)

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シャルル10世廃位

1830  ルイ=フィリップ即位

ギソー首相

当時選挙権のある人は二百人に一人のみ。国民は不満を訴えた。それに対しギソー首相

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経済格差と不満は解消されずパリ市民は暴動を起こす。ルイ=フィリップ退位(2月革命)

1848  共和制

ルイ=ブランの案により

国立作業所設立

工場のない日も給料が支払われるため国が財政難になる

国立作業所閉鎖

ルイ=ブラン失脚

6月  パリの労働者は放棄したが陸軍大臣カヴェニャックにより暴動鎮圧

混迷したフランスは新しい「救世主」を求めた

12月 大統領選挙でナポレオンの甥っ子ルイ=ナポレオン当選

「ルイ= ナポレオンは政治家としと何の実績もなかった。だがフランス国民は「ナポレオン」という名と「血筋」に期待して投票をし新たな『救世主」とした」

「『ナポレオン』という名前だけに投票したの?実績もないのに?直系でもない。日本でいう世襲議員みたいなものね」

ルイ=ナポレオンは『ナポレオン』の名のもとにクーデターを起こし独裁。国民投票により 

第2帝政

1852  皇帝ナポレオン3世が誕生した

鉄道整備

産業発展

パリ下水道、道路整備 

ガス燈の設備

1860  通商条約🇬🇧 🇫🇷

パリ市街の大改造

1853〜1856  クリミア戦争  対ロシア

1856〜1860   アロー戦争   対清

1858〜1867   インドシナ戦争(ベトナムカンボジアラオス植民地)

1859  イタリア統一戦争  対オーストリア

1861   メキシコ政府が国際利子の支払い停止宣言

1862   メキシコ遠征🇫🇷  🇪🇸  🇬🇧

メキシコ利子の支払いを約束してスペイン、イギリスは撤兵

1863   フランスはメキシコ占領。マクシミリアン(オーストリア皇帝の弟)を皇帝に任命

格下の相手に戦争を仕掛け人気を得たナポレオン3世

しかし メキシコ反発

アメリカまで異議と唱えフランス軍はメキシコから撤退

1867  孤立無援のマクシミリアンはファレス軍に処刑

ナポレオンがマクシミリアンを見殺しにしたと人気はガタ落ち

1870  スペイン王家の後継者問題でドイツと対立。フランスは戦争を回避しようとしたが

ビスマルクの策略に乗せられ(エムズ電報により戦争せざるを得ない状況に追い込まれた)

1870  普仏戦争

ビスマルクプロイセンにコテンパンに叩かれ  1ヶ月半でフランス降伏

ナポレオンは自ら趣き捕虜となり廃位。ナポレオン3世はイギリスに亡命

1870  フランス共和国宣言

臨時国防政府成立

パリはプロイセンに囲まれた

プロイセン ヴェルサイユ占領

だが、フランスの革命のウェーブはヨーロッパ中に波及し

1871  プロイセン パリ攻撃

1月18日  ヴェルサイユ宮殿プロイセン国王ヴィルヘルム1世即位ドイツ帝国の誕生

諸国が共同出兵して代表を敵地で選ぶのは昔からの習わしである

1871  2月 ティエールが行政長官に就任し、新しい臨時政府誕生

1871  3月 パリ市民はドイツとの講和に反発してパリ=コミューンを樹立

1871   5月  臨時政府はパリ=コミューンを総攻撃して壊滅させた。何万人ものパリ市民が殺された

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「レ=ミゼラブルの世界ね」

政府の武力でにぎり潰されたパリコミューン

この革命はヨーロッパ中に波及し、この後ヨーロッパ各地で独立運動、革命が起きた

1875  第三共和国憲法が制定