ことりの啓示

カルト宗教、洗脳研究

宗教ブログ

プーチンはなぜウクライナを侵攻したの

「とらやの羊羹買ったの」

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とらやの階段登る

「ロシアによるウクライナ侵攻で全てが値上げで迷惑だわ。なぜプーチンは悪いことするのかしら?」

プーチンは自分を悪と思っていないの。ロシアはウクライナに虐げるロシア人を救済するための自衛としている。ちなみにロシアによるとアイヌ人もロシア系であり、日本で虐げられているアイヌ人救出プロジェクトもある

ロシアは北海道に対する全ての権利を持っています 

セルゲイ=ミロノフ(ロシア大物議員)

EUアメリカは非難したけどロシアにとっては悪ではなく自衛なの。今日は悪について考察するわよ」

悪とは 人の嫌がることをする行為。しかし「悪」は複雑で、いろんな種類がある

本人は「困らせる」意図はないが、結果として人に迷惑とか、不快な想いをさせてしまう人がいる。例えばマイメロディみたいなものは問題ない

悪とは、相手を苦しめたり、傷つけることを意図して相手の苦しむ表情をみて嬉々としている状態。この嬉々とした心理はサディズムではなく「この間違った人に正しさを教えてあげた素敵な自分」「悪を退治した達成感」に喜びを感じるヒロイズム的なナルシズムである

悪を行う人は、自分なりの理由をもって、納得した上で、悪をしているのだ。そして彼らにとってはそれは悪ではないのだ

人は悪を悪と思いながら、それを望むことはできない  

          ソクラテス

悪を犯す人は、それを「良い」とみなしているからこそできるのだ

2001 同時多発テロイスラム過激派にとっては正義で

報復のアフガニスタン派遣はアメリカの正義である

2002 イラク戦争は 大量破壊兵器を持ったイラクを民主国家にするという大義名分は、全くの嘘であり侵略である。しかしアメリカにとっては絶対正義である

このような例は歴史上いとまがない。宗教、思想信条、社会体制、個人の倫理異なると「正義」が真っ向から対立する

自らの倫理、宗教、思想信条などの信念から犯罪を行うと者を確信犯といいます

この確信犯は高邁な理想の実現のためなら手段を選びません

「暴君」や「独裁者」と呼ばれる人は「正しい」と思っているからこそ、その行為を行うのだ。彼らは自分を「悪」と思っていない

悪を行う人は自分に都合がいい理由をつけているだけで、その理由は屁理屈だ

悪には「軽蔑」からくる意地悪と「憎しみ」からくる悪がある

誰かをバカにする人は、その相手に負のレッテルを貼り、「あいつはバカだ」など価値のない人間だと決めつける。それは差別だが本人は自分が差別主義者と気づいていない

差別主義者は自分が差別主義者と思っていない

人間は他人より抜きんでいたい要求がある。本来それは、出世するとか、なんらかの目的を達成するための向上心である。人間は何かを達成した時、快楽ホルモンであるドーパミンが放出する。更にこの快楽が欲しくて また何かを達成と挑戦して人間は成長する

だが誰しもが向上できるわけではない。こうした競争から脱落したものは誰かを一段以上自分より下において「下には下がいる」とみなし見下すことにより溜飲を下げる

「下には下がいるから私はまだまだ大丈夫」という優越感はドーパミンか放出される。ドーパミンは麻薬のようにクセになる

失敗した時 自分に何が足りなかったのか どうしたら達成できるのかという思考こそが解決力だ。「〇〇のせいだ」なんらかのせいにしたり「私はこの人よりマシ」で溜飲を下げるなら問題解決する力を失う。自分を改善しなければ向上できず失敗だらけになり負の無限ループに陥る

こうして状況が全く改善できないから人を見下す気持ちはどんどんエスカレートしていく、あからさまにそれが態度に出るのだ公然と「バカにするのだ」。この時点で「差別」だ。しかし本人は自分のことを「差別主義者」とは思ってはいない。相手が「悪く」自分の言動を「劣ったバカにバカと言って何が悪い?」など自分の差別的行為を「正しい」とみなしている

次第にその人を「汚いもの」として蔑称をつけて侮辱する。そして集団から排除する。この時点で差別する人にとって相手は「同じ人間」とはみなさない。次はその人の権利を奪いはじめる。そして最後は「死ねばいいのに」と「生きる権利」さえも奪う。相手が死んでも自分は「正しい」ことをした。と信じている。寧ろ「悪をやっつけた私って凄い」と陶酔している。相手のことを自分と同じ人間と思っていないから罪悪感は全くない

憎しみからくる悪は、レッテルを貼るだけではなく、積極的に相手に罰を与えようとする。憎しみから悪をする人に、その理由は2つある

一つ目は

「自分や自分の仲間が、以前、苦しめられたからだ」と答えるだろう

彼らは自分たちを「被害者」または「正しい」とみなしていた。「悪」をしているのではなく、復讐、報復、身の程をわきまえさせている

復讐のために相手に苦しみを与える。自分が受けた苦しみより、相手の苦しみのほうが大きい

2つ目は、何が悪で何が善か決める権力者がいて、それに追随する自分が代理として罰を与えている場合もある

自分こそが正しいと信じて、疑わないこと、それが悪のはじまりだ。それが究極までいくと他者の苦しみが自分の得、快楽になる。それは虐待、拷問、殺人、ジェノサイドとつながる

「悪」する人はギャングとか暴力団みないな例外的な人ではない。人間はみな誰しもが色んな面を持ち、考え方、行動も一定ではなく、環境、状況により左右される。清廉潔白な人間はいない

人間とはもともと矛盾した存在だが、強いプレッシャーに晒されると、さらにそれが酷くなる。そうして磁極にふれておかしくなった方位磁石のように、判断がくるってしまう  プリーモ=レーヴィ

ナチス

人心を掌握、また集団を結束するには「共通の敵」が必要だ。ヒトラーは金融業を営み裕福だった「ユダヤ人」をドイツ人の敵にした

第一次世界大戦で負けたのも、ソ連共産主義も、欧米の独占資本もみなユダヤ人が操っていたという陰謀論を流します。世の中の悪を全てユダヤ人のせいにします

こうした陰謀説は論理的におかしいのです。ユダヤ人でも、ドイツ人でもどこの民族、国民でも長所もあれば短所もあり、常に正しい行動はできません

ドイツ人はそうした当たり前のことが見えなくなりユダヤ人を迫害します

オーストリアのワルトハイム大統領、ハイデガーなどの知識人でさえナチズムを容認したのです

ヒトラーユダヤ人、治る見込みのない病人、同性愛者、社会的弱者をガス室に送り込みます。しかし、ヒトラーナチスの党員たちもドイツ人たちも自分だけが正気だと信じて疑いませんでした。かつては彼らは何処にでもいる普通の人間だったのです

万人は万人に対してオオカミである

           ボッブス

ボッブスによると、健全な人間は一人の例外もなく、常に競争状態である。他の人が持っているものを手に入れたいと願い、他の人より勝っていたいと願う。力の上て他人より優位に立つことによって、身の安全を保とうとする。もし法律上、罰せられないとしたら、人間はいつも他人を蹴落とし、やっつける

万人に万人に対する戦争

       ボッブス

人々が法や規則に従うのは、そうしなけば損するからであり、胸の中には、嫉妬、嫌悪の感情かたぎり続けている

これは、極端な悪を除き、社会で「意地悪な人間」を識別することができない

もし、世界かは悪がなくなれば平和になるのか?パッピーになれるのか?

悪のない世界を考えよう

お話、映画、ドラマ、漫画の中で悪役かいなければ、話が退屈だ。「意地悪」があるからこそ「ワクワクするのだ」「面白くなるのだ」

意地悪役が邪魔するからこそ恋愛ドラマは面白くなり

悪役のいない戦隊ヒーローを子供たちは面白いと思うだろうか

犯人がいなければコナン君も金田一明智も活躍しない

ばい菌マンはいない世界は、無菌の世界だ。無菌の世界では人間は生きていけない。光があれば影がある。人間にとって悪は必要なのだ

風刺画はどうだろう?風刺画は権力者などを批判する。ある人物の誇張した風刺画は、その欠点を残酷なまでに誇張する。おもに支配者をからかっている

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病気の人や不慮の事故で死んだ人などを揶揄するのは人間として問題があるがあなたは政治家、政府、権力者をからかうことか禁止されている国に住みたいだろうか?

からかいとは、自分が嫌いなもののなかに、軽蔑でくる何かがあると感じることからくる喜びだ   スピノザ

からかうことも必要な場合もあるのだ。もちろんそれは時と場所を使いわけなくてはならない

キュゲスの指輪

キュゲスは透明人間になる魔法の指輪を手に入れた。キュゲスは女王の寝室に忍び込み、王を殺し、王の座を奪った。姿がみえず何をしても罰せられなれれば良心も道徳もなくなってしまうのだ

人が悪いことをするのは、やったことがばれないとき、バレたとしても罰せられ時、また罰せられても、悪いことをして自負や仲間が手に入れる利益のほうが大きいとわかっているときだ

        アリストテレス

私たち悪いことをした時、誰かを傷つけた時、誰かが苦しんでるとき心に痛みを覚え後悔するのだ感情がある。それは良心だ。しかし、被害者の苦しみのほうが大きいのは言うまでもない

確かに、桁外れに酷いことをした人の大多数が、その行為の最中、またはその後に、自分のしたことがいかに不公平極まりなかったかに気づき、疑いや不安を持ったり、更には罰せられたりする。だが加害者のそんな苦しみは犠牲者のそれと比べれば、ものの数にも入らない

      ブリモ=レーヴィ

「悪」する人は、周囲の人の幸せを願っている。ただしその対象は、自分の仲間だけで、それ以外の人の苦しみに無関心だ

残念ながら何かが破壊されたり、傷つけられた人をみたとき、優越感を感じ気分が良くなる人がいるのだ

ソクラテス

ソクラテスはカリグラテスという貴族の若者を問答をした

ソクラテスよあなたは法と正義を守り、理にかなった行いをするように」と説いてがいるがそれは間違っている」。カリクラテスによると法は強者を抑えるため弱者がつくったもの。法に従うものは「弱者」だと言った。良い行いをする人は「弱い」から悪を行えないだけで「弱さ」=「悪」

「いい人」は他人に勝つ「強い人」ということだ

もちろん屁理屈だ。あなたならこの問いにどう答えるだろうか

ソクラテスは「間違っている」と答えた

理性が求めるのは秩序であり、バランスであり、正義である

プラトンは悪と不正には、無知と愚かさが大きいに関わっていると考えた。教養や知性がないからというより、知ることの頑なな拒否だ

普遍的に何が正しく、善いのかは非常に難しい。理性とはそれぞれの人が持つもので深く物事を考え続けることだ

優しさには 様々なかたちがあり、毅然とした強さがあってこそ、真の優しさがある。優しさとは思いやりであり、先を見通す目であり、ゆるぎなさであり、静かな力強さだ

それに引き換え、意地悪な人は視野が狭い、エゴイスト的な考え方しかできない

自分の願いばかり考えるのではなく、社会にいる多くの人たちにとって良いこと、良いことを真剣に考え行動するからこそ未来をみつめ広い視野を持つことができる。それが優しさではないだろうか