BLMの主張
「俺たちを肌の色で差別するな」
「差別をなくす」
「全ての人を平等に」
「平和」
「愛」
「正義」と彼らは綺麗事を訴える。彼らの言動には違和感を感じてしまう
人間は肌の色だけで差別をするわけではない
日本では今でも「イジメ」というものがある。「イジメ」のターゲットにされた子供はクラスの最下層に置かれ「非人道的扱い」を受ける。「汚いものとして扱われ、侮辱的なあだ名をつける(本名で呼ぶのも汚らわしい)。嘲笑され目の前で「〇〇がこのクラスからいなくなればこのクラスは平和になる」と言われる。自殺するまで追い込まれる人もいる。イジメターゲットが自殺するとクラスのみんなは歓声の声をあげる。彼らには罪悪感はない。クラスの和を乱す「悪」を排除しただけ、害虫駆除と同義だ。同じ日本人同士でも差別をするのだ。肌の色は差別手段ではないのだ。もし世界中の人間の肌の色が同じになっても差別は存在するのだ
人が差別をするのはなぜか?
人間は社会的動物である
古代社会 一人では狩をするのも農耕も困難である。人間は一人で誰も話す人がいなければ精神を病んでしまうし、子孫も残せず滅んでしまうのだ
人間は生き延びるために「集団」が必要なのだ
人は集団になると安心できるし、強くなる
ですから狩猟民族にしろ、農耕民族にしろ群れを作るのです集団に属することが必要です
中高のクラスで「グループ」に所属するのも、一人でいれば「楽しくないし」「イジメのターゲット」になりやすいからだ。集団でいれば強くなる。楽しくなる。所属する集団があれば安心感が得られるのだ
私たちは「安心」するために集団に属したい要求がある
家族→部族→群れ→ムラ→国へと「〇〇村の人」「☆☆村の人」と分類されるのだ。人間を類別すると楽なのだ
万人は平等ではない
人間は 容姿、性別、性格、嗜好、能力などは誰一人として同じ人間はいない。万人平等などは不可能だ
クォーター制
アメリカの大学では 白人、黒人、アジア系の比率で入学される。一番難関なのは、教育熱心な中国、韓国、日本のアジア系であり、ボーダーより上のアジア系や白人が落ちても、ボーダーより下の黒人たちは受かっています。万人が皆平等ではないのです
人間の正式名称は
動物全体を鳥類、哺乳類、藻類と分類するとわかりやすい
人間自体も「〇〇村の人」「☆☆村の人」と分けると便利なのだ
住所、電話番号、郵便局番号も分類すれば実にスムーズだろう
人間関係もそうだ。初めて会った人にあなたはどのような話題を振るだろうか?
瞳、顔つき
体格
服装
外観で判断して話題を振らないだろうか
例えばサービス業の人はお客様に声かける時に「靴」をみてお客様を判断します
宝石店の店員ならば、客の服装、アクセサリーでどのような人か判断して声をかけます
何の先入観を持たず、フラットに接するのが望ましいのだが、やはりその人を理解する手がかりが欲しいのだ。「手がかり」こそが「分類」なのだ
例えば
「私は教師です」といわれたら堅実な人なんだと相手に伝わるし、学校ネタの話題もつくりやすい
「県民ショー」で 「〇〇県の人はこんな性格」など
「血液型占い」では根拠がないのにかかわらず「〇〇さんはA型だから真面目」など、分類は相手との付き合いを考える上で手がかりとなりのま
受験では「文系」「理系」と分類されるのも便利である
政治も「党」という「分類」に分けられる
分類は楽で便利でなのだ
集団をつくることは安心で便利です
どのような集団に所属するか。集団には価値観をともにする人々が集まります
市民活動、政党活動、趣味のサークル、オウム真理教も最初は「ヨーガサークル」だった
何かの目的を達成したければ一人で活動するよりは集団の方が達成するのが早いのだ
集団ができると
「内のグループ」「外のグループ」ができます
人間は自分のグループを「内集団」「外集団」線引きをするのです
人間は自分の所属する「内集団」を好意的にみなし
「外集団」には否定的になりがちです
自分たちの集団を「私たち」とみなし、外集団を「あの人たち」と線引きをするのです
この線引きというのは、基準が曖昧であり、流動的です
Aという集団が「自分たちは絶対正義」と考えるならば、それ以外は「間違っている」になります。自分たちの正義が正しければ正しいほど多集団を「奴ら」「あいつら」とみなします
例えば独裁国家は
国を一つにまとめるために「敵」をつくります
自分たちの集団(国、民族)を高等、優れているとする一方で
敵とみなす集団は、劣等民族とみなすことによって貶める「非人間化」します
「非人間化」とは「あいつらは人間じゃない、野蛮な奴らだ」とういう認識をつくりあげることです
2001 同時多発テロの時、アメリカ ブッシュ政権はイラクイラン、北朝鮮を「ならず者国家」「悪の枢軸」と呼びテロ支援国家として非難しました
「敵」をつくり「悪」のレッテルを貼ることによって、国内の結束力を高めるのです
それが強過ぎると「悪魔化」になります。だから自分がやられる前に、先制攻撃をしなければと考え 「イラクは大量兵器を持っている」と先制攻撃をするのです。実際イラクには大量兵器はありませんでした。こうして戦争がはじまるのです
歴史を遡ぼれば戦争は 集団のリーダーが「内的」「外的」線引きを使い分けることによっておこるのです。カルト(集団)が問題をおこすのも同じ理由です
人間は集団を作る→所属する→線引きをする
人間は線引きをして、内と外に出る分けたがる本能があります
分類し過ぎると「分裂」「対立」「不寛容」につながります
分類は楽で便利、楽です。便利は自己判断の放棄につながります。もしあなたが「楽したい」と思考停止した時、あなたは何かに支配されるだろう
「〇〇は差別主義者だ」とか他者に差別主義者のレッテルを貼る者の方が私はぞっとします。このような不寛容な人こそが差別主義者ではないだろうか?
他者をスケープゴートにして悪人に仕立て上げ「私は差別主義者ではない。私は善良な人間だ」と自分を無垢な存在としたいように思えてしまう
私たち人間は本能的に人を分類する
人は差別する生き物
ですから世界中が平和な時はないのです。人間が線引きを行い、集団をつくる限り、それは変わらないでしょう
世界中が一致団結する時は、宇宙人が地球を攻めてきた時くらいでしょう
これも地球人と宇宙人という境界線を引いただけにすぎません
私たちは本能的に主観的に物事を考えがちだ。自分と違う価値観、外観の人を「おかしい」と感じ線を引いてしまうのだ
他者を差別主義者とレッテルを貼るのではなく大事なのは寛容さではないでしょうか
私たちはお互いに他者の気持ちを慮ることが反差別ではないだろうか
常に自分自身を疑い私は自分と違う人を軽んじてはいないだろうか?と自問自答することではないだろうか