フロイト
フロイトは宗教について「現世のいっさいの出来事は、我々を超えたある知的存在…我々および全宇宙の創造主である神」としている
我々を守ってくださる父親、保護者的存在が神である
神の存在、保護を必要とするのは幼児期だけであり、成熟すれば、自分で克服できる
神、宗教は、幼児期の人類が父親、保護者に見立てて心で作りだした幻想にすぎない
人間はみな将来に対し不安を感じて何か拠り所が探している
その不安を回避するために宗教を作ったのだ
また宗教信者を「脅迫神経症患者」としているが、必ずしも宗教を否定したわけではない
「宗教に依存する人間は『5歳児の子供』ということね
ユング
過去、現在、地球上のどこにおいても、宗教を持ったことのない文明は存在しない
人間は宗教的本能が存在するとした
原罪
全能の神は完全な創造物アダムとイブを創った
完全であるはずなのにアダムとイブは罪を犯した。それは何故か
創世記2章16〜17節 「園の全ての木からとって食べなさい。17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう(新共同訳聖書)
そういう可能性を神が開いたからである
アダムとイブ創造以前には『悪魔、サタン』を創っている
「正式に言えば自ら(サタン(敵対者)、悪魔(中傷するもの)になったのだけど創ったのは間違いない」
「悪魔がアダムに罪を犯させるように仕向けている
そのように全てを整えたのは神であるとユングはといた」
「神はアダムが罪を犯すことを前提としていたのね」
例)
「子供はしばしば「やってはいけませんよ」と禁止されたことほど、やりたがる生き物
厳しい禁止や罰があるほど、その気持ちは強くなるの
子供ならば
ピンポンダッシュとか
寝る前にお菓子を食べるとか
中学、高校生になれば制服など校則違反、バイト、煙草、飲酒
厳しい校則があればあるほどしたくなる
大人でも、干されると解りながらも不倫たり
バレたら大変なのに賄賂もらうとか
(画像 FNNプライムオンラインより)
金持ちなら脱税など
ダイエット中なのにお菓子を食べてしまうとか
社会的にいけないとされていることに、魅力を感じて繰り返す人は珍しくないわ」
「背徳ね」
Q.「禁じられたこと」をあえてしたくなる心理とは
「実行したい」と希望している行為を禁止された時人の心の中は
「その行為をしたい」
「禁止されているからできない」という相反する2つの気持ちが生じます
「矛盾ね」
「この2つは認知的に不協和です」
「認知的不協和ね」
この認知不協和を解消するために
禁止された行為を
『それほどやりたいことじゃない。だからやるんだ』と考えるようになります
矛盾
禁止の拘束が甘ければ甘いほど、その行為をしない自分に矛盾を感じないため『あれはつまらない行為だ』と思いやらないのだ
ところが、厳しい罰則や制裁がある禁止行為には
『やりたくてもやれない』という自分の気持ちに矛盾を感じません
そこには認知的不協和はないため、その行為の魅力そのものを否定しなくても済むわけです
以上の理由から
人間は「ダメだ」と言われれば言われるほど
罰が厳しければ厳しいほど
認知的不協和が強くなり
その行為に魅力を感じて『やりたい』と人間の脳は機能するのです
誰かに禁じたいことがあれば、厳しい罰則は返って逆効果になる」
「確かに
押すなよ。絶対押すなよ
と言われたら、押さなけれればならないのが世の情け
命令されたら
したくなくなる
禁止されたら
やりたくなる
子供の頃、親に
「早く勉強しなさい」と命令されると「今やろうと思ったのに」と勉強する気ぐ全く失せてしまう
ゲームしている時に「ゲームやめなさい」と命令されたら意地でも続けてしまう
これは反抗期やあまのじゃくな人に限られたものではなく
誰にでもある心理で社会心理学者のブレームはこうした反発心のことを
心理的リアクタンス(抵抗)
と名付けている
リアクタンス(抵抗) 強制されたりすると反発してしまう
人間は命令されたら反発する
人間には、本来、自分の行動や態度を自分で決めたいという生得的本能がある。自分の「自由」が脅かされて抵抗がおきるのだ
あなたはこの木の実から食べてはならない。食べたら死ぬ」
と言われた時、アダムとエバは認知的不協和に陥り、さらにリアクタンス(抵抗)を感じ、逆に食べたくなって食べたということになる
似たような神話は他にもある
ギリシャ神話の「パンドラの箱」ゼウスから「絶対に開けてはならない」といわれた箱を、パンドラは開けてしまいます。すると箱の中から、この世のあらゆる悪があらわれ、出て行ってしまったのです
死んで黄泉の国に行った妻イザナミを、夫のイザナギは迎えにいきます。妻は「自分の姿は醜ので見ないでくれ」と頼んだのだが、夫はこらえずに見てしまいます。醜い姿を見られた妻は激昂して夫を襲います。夫は地上に逃げ帰ります
いずれ神話も「するな」と言われたら逆にしたくなる人間の深層心理をうまく表しています
人間を創ったエホバならば、厳しく禁じれば、その行為をするということは理解していたはず
全てはエホバの
(デスノートより)
「人間は強く禁じられたら禁じられるほどそれをしたくなる生き物
最初から神は人類に「原罪」を植え付けたかったことになる
某カルトによると
食べてはならない木は一つだけだから、神の教えを守るのは簡単だったのにアダムとイブは神に逆らった
神はアダムとエバの忠誠心を試した
と教えているけど、『愛ある神』ならば忠誠心がなくとも無条件で愛を与えるし、人を試す真似はしないわよね。ましてや食べたら死ぬ木ノ実のなる木も作りはしない
アダムが罪を犯した後、用意周到に同等の対価『イエス』について言及している。最初からアダムの罪は神の想定内だった」
「神は人類に原罪を植え付け、自分に依存させ支配するためだったという見解もあるのね」
マルクス、フロイト、ニーチェなどは宗教を否定したわけではなく
宗教は、人間に一種の恍惚状態を与え依存しやすいものなのだ
社会を変革しようとしても、宗教の気持ちよさに人々が安住してしまうと、社会変革が骨抜きになってしまうから「宗教は阿片」と語ったのだ
宗教は死にゆく運命である私たち人間が、たった一度の人生を幸せによりよく生きるためにある救いであるべきだ
原罪」などを用いて縛り付け依存させるものは「宗教」ではなく「阿片」なのだ